三段峡憲章

三段峡は問いかける渓谷です
深く刻まれた谷、澄んだ水
多種多様な動植物
重ねられてきた歴史に向き合う時
ある人は大自然の美を見いだし
またある人は山水画の筆致に景色を重ねます
小さな生き物のけなげな姿に感じ入る人
自然と人の狭間に横たわる大きな矛盾に気付く人
私たちは何を美しいと思うのか
何を大切にしているのか
そしてこれから何をしていくべきなのか
視線はいつしか私たち自身の内面に向けられていくのです
私たちは三段峡の問いかけに向き合い続けます

幽玄の峡谷は問いかける 自然の価値の本質を

清麗の渓水は問いかける 歴史と文化の流れを

探勝の小径は問いかける 人と人との繋がりを

三段峡開峡100年 2017年(平成29年) 制定

 

 

一の段  幽玄の峡谷は問いかける 自然の価値の本質を

三段峡は1925年(大正14年)に国の「名勝」に指定されました。名勝とは自然の景観であっても歴史的、人文的な美意識が強く反映されますが、当時の文献などから特に近代以前の「文人趣味*」を背景とした指定であったことが伺えます。
1953年(昭和28年)には、新設の文化財保護法により「特別名勝」に指定されました。時代感覚を反映して、よりスケールの大きな自然景観が特別に選ばれました。
現在は、特異な気候と地形の影響で植生帯の降下現象*がみられる豊かな生態系と貴重な種が残る渓谷として認められています。
三段峡は、文人趣味、自然美、環境保全など、多くの価値観が重なり合う場所です。渓谷を刻んだ悠久の時間、積み上げられた生き物たちの営み、自然と人とがかかわる中で生まれた山里の生態系、そしてその環境を守ろうとしてきた人々の想いが三段峡の価値をつくりだしています。

大自然の美と庭園的な美を併せ持つ三段峡は、自然遺産であり文化遺産です。私たちは美しい景観と多様性の豊かな自然を守り、これからの100年のために持続可能な環境を育てます。

 

 

二の段  清麗の渓水は問いかける 歴史と文化の流れを

西中国山地の豊かな森から生み出される水は川となり、幾筋もの流れを集めて瀬戸内海へと注ぎ、太田川流域の生き物たちや人々の暮らし、産業を支えてきました。
太田川が運ぶ土砂は広島の三角州を形成し、伐り出された木材で家屋が建ち、街ができました。川を利用した流通によって人や物資、文化の交流が行われていました。
西中国山地のたたら製鉄*で産した鉄は、「安芸十り*」と呼ばれる広島の鉄製品になり、その後の重工業の礎にもなりました。三段峡に残る炭窯やたたら場の跡は、人々がこの一帯で木を伐り、炭を焼き、鉄づくりをしていた往時を偲ばせます。
太田川上流部は急峻な地形のため耕地が狭く、豪雪地帯でもあり、厳しい生活環境だったと想像できます。そうした中で人々は、自然との持続可能な共存関係を築いてきました。自然と寄り添い生きる山村の文化は、未来に向けた社会のあり方に大切な示唆を与えてくれます。

三段峡は、海へと続く太田川流域圏の野外博物館です。私たちは、相関する自然の摂理や人と自然が作り上げた歴史と文化を学び、これからの100年のために豊かな太田川流域文化を築きます。

 

 

三の段  探勝の小径は問いかける 人と人との繋がりを

1917年(大正6年)、写真技師として初入峽した熊南峰*は、渓谷の美しさに心奪われ、一身を投じて文化的開発に尽力した人物です。
小学校教師の斎藤露翠*や画家の三沢三千彦*、地元の人たちの協力を得て、全長16kmにも及ぶ峡内に道を造りました。今に残る探勝路は、自然への負荷を可能な限りかけず、美しさも損なわないように配慮されています。
南峰は、名勝指定への懸命な運動や写真集の出版などを通じて広く世に知らしめ、中国の景勝地「三峨、三峡*」にちなんで、渓谷の名を「三段峡」とするよう提唱しました。
土地の恵みと真心をもって人をもてなし、この山水画のような仙人境を都会に住む人の癒しの場とすることが、南峰の想いでした。
三段峡は人々を魅了し、訪れる人が多くなるとともに地域の人々が働く場もできました。南峰が理想とした自然の美と恵みに人の温もりが重なる三段峡の姿は、時代が移り変わっても観光が目指す根幹となるものです。

三段峡は、訪れる人、迎える人、暮らす人たちすべての豊かさと幸福のための共有財産です。私たちは、三段峡という風景の登場人物として対等な関係を築き、これからの100年のために南峰の志を受け継ぎます。

© さんけん 三段峡-太田川流域研究会